はなをもつしょうじょ 花を持つ少女
帝国芸術院会員・レジオン ド ヌール勲章・ベルギー王立アカデミー会員
リトグラフ・額装
限定300部の内266番
版元シール
画寸(縦x横):
43.2 x 29.5 cm
額.軸寸(縦x横x厚):
66.0 x 52.0 x 3.2 cm
作品状態:良好
- 売約済
藤田 嗣治1886年(明治19年)~1968年(昭和43年)
経歴
1886年 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。父、嗣章は当時陸軍一等軍医で領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した。
1893年 東京高等師範学校付属小学校に入学。
1900年 同中学校に入学。
1905年 同中学校を卒業。東京美術学校予備科に入学。東京美術学校西洋画科に入学。
1912年 第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。光風会第1回絵画展覧会に「清水湾」「帝国劇場」「南国」が入選。
1913年 門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンと知り合う。
1917年 シェロン画廊で初の個展を開く。ピカソの友人である批評家、ンドレ・ サルモンが目録に序文を書く。
1918年 シェロン画廊で2回目の個展。この頃からフジタの名が広まる。
1919年 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出し た。
1921年 サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。画商が藤田の作品を奪い合った。
1923年 サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
1925年 第5回帝展委員。帝展に「静物」を出品。
1927年 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。
1929年 17年ぶりに帰国。東京朝日新聞社屋で個展を開き、大作「構図」ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。ひきつづき2回目の個展を日 本橋三越で開催。「舞踏会の前」ほかデッサン、版画等数十点を出品。
1930年 パリに帰る。ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞 在する
1931年 パリに引き揚げた後、ブラジルに旅立つ。
1934年 日動画廊で個展。二科会会員に推挙される。大礼記念京都美術館開館記 念京都市美術展に「メキシコ」を出品。第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳 列この年、メキシコ風のアトリエを建てる。
1937年 横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京朝日新聞に連載。麹町下六番町に京風の純日本式住宅を新築。この年「自画像」がパリの国立近代美術館に 収められる。
1938年 沖縄に遊ぶ。琉球作品発表展に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。
1939年 渡米したのち、パリに着く。
1940年 第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。
1941年 良き理解者であった父嗣章が死去する。帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。
1949年 羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。ニュー ヨーク滞在中、51番街の画廊で近作を開催する。
1951年 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」などをパリの国立近代美術館に寄贈。
1955年 フランス国籍を取得。
1959年 カトリックの洗礼を受ける。洗礼名「レオナルド」。
1960年 新宿伊勢丹で藤田嗣治展を開催。
1968年 1月29日、81歳で死去。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。